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2012年01月10日

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航空軍事用語辞典から

ブラック・シーの戦い

1993年10月3日から4日にかけ、ソマリア首都モガディシュにおいてアメリカ軍の特殊部隊が遭遇した熾烈な銃撃戦。

内戦の激しかったソマリアでは飢餓が蔓延しており、30万人以上が餓死する深刻な状況となっていた。
このためソマリアにおける平和維持活動(UNOSOM)では、当初平和的支援が目指され、アメリカ海兵隊の警護下で食糧配給が進められた。
ある程度の効果はあったものの、海兵隊の撤収後は再び抗争が激化して食糧の略奪などが恒常化し、焼け石に水であった。

これを反省し、1993年に開始された第2次国連ソマリア活動(UNOSOM2)では、アメリカ軍を中心として、最大勢力であるババルギディル族(アイディド派)を武力制圧することが目標とされた。
通常部隊による任務の達成は非常に困難で、パキスタン兵がアイディド派に惨殺されたり、逆に停戦受け入れのための会合をしていた穏健派に対してアメリカ軍のAH-1Wが突如対戦車ミサイル(TOW)を撃ち込むなどの事件が発生し、事態はさらに悪化。
以後は特殊部隊によるアイディド派幹部の拉致が主な作戦となった。

作戦には陸軍デルタフォース、第75レンジャー連隊、第160特殊作戦航空連隊、海軍SEALs、空軍パラジャンパーなどで構成されたタスクフォース(特殊部隊)が投入された。
8月から特殊部隊の作戦が開始され、武器商人を捕まえるなどの成果を挙げてはいたが、政情の不安定なモガディシュでは情報が錯綜し、国連職員を誤認逮捕したり、9月25日には1機のMH-60Lが撃墜されるなどの問題が相次いだ。

もっとも、アメリカ軍は国連職員の汚職を疑っており、結果としてそれを立件できなかっただけともいわれる。
そのせいもあり、アメリカ軍は国連軍との連携を拒んだものと見られる。
しかし、これが災いしてアメリカ単独でこの作戦を決行したため、後述の救出作戦の際、パキスタン軍の援軍を含めた救出部隊が出発するまで数時間を要した。

しかしアイディド派支配地域であるバカラ・マーケット(別名ブラック・シー)において幹部の会合が開かれるという情報を得た現地司令官のウィリアム・F・ガリソン少将は、ワシントンに対し装甲車とAC-130ガンシップの派遣を要求したが、ワシントンが「あまり目立たせたくない」との判断からこの要求を却下。
代わりにHMMWVに追加装着する簡易型の装甲板を送ってきた(結果的にこの装甲板はソマリア民兵の使用するAK47から発射される7.62mm弾を防ぐことができず、貫通し兵士を負傷させた)。

作戦は「アイリーン作戦」と命名され、10月3日に会合が開かれる建物が確認された直後、発動された。
「アイリーン」という作戦開始コード発動後、会合が行われる建物を制圧、幹部を拘束する任務を帯びたデルタフォース隊員が搭乗する人員搭載型MH-6Jリトルバードと武装に特化したタイプのAH-6Jリトルバード、それに周辺確保・警戒を任務とするレンジャー隊員を乗せたMH-60Lブラックホーク、撤収用のHMMWV、そして護送用のトラックからなる強襲部隊を出動させた。
アイディド派幹部2名を含む捕虜の確保には成功したが、民兵のRPG-7によって2機のMH-60Lが撃墜され、さらに2機のMH-60Lが飛行不能に陥った。
撤収する予定だったアメリカ兵の多くは、墜落機の乗員救助と機密機器爆破の必要から墜落地点へ向かったが、民兵に包囲されて足止めを食らい、篭城戦を強いられた。
篭城したアメリカ軍は一晩中戦い続け、地上部隊の支援のため、リトルバードがミニガンによる機銃掃射とロケット弾攻撃で援護を続けた。
そして翌朝、アメリカ第10山岳師団・パキスタン軍・マレーシア軍の合同チームによって救出されるまでに18名が死亡、多数が負傷した。
一方、ソマリア民兵や民間人の死傷者は500名とも1000名ともいわれる。
(アメリカ側の死者が19名とされる場合があるが、これは撤退時に戦死したマレーシア兵1名、または作戦の3日後に基地への迫撃砲攻撃によって死亡したデルタ隊員1名のいずれかを含めて言ったものと思われる)
戦死者のうち、仲間を救うため自ら絶望的な状況へ降り立っていった2名のデルタ隊員、ゲイリー・ゴードンとランディ・シュガートには、後に名誉勲章が授与された。

この戦いは、ベトナム戦争?以降にアメリカ軍が体験した、もっとも激しい銃撃戦といわれている。
また、撃墜されたパイロットの遺体が引きずり回される映像が報道されたこともあいまって、アメリカの世論に大きな衝撃を与えた。
このため、作戦が所期の目的を達成したにもかかわらず、クリントン大統領はソマリアからの撤兵を決断する。
以後アメリカ政府は、直接国益に適わない派兵はおこなわないようになり、翌年のルワンダ大虐殺においても兵を動かさなかった。

アメリカが退いた後のUNOSOM2は武力行使を避けるようになり、1995年に活動を終息させた。
アイディド派を率いていたアイディド将軍も、その翌年には死亡。
以後、ソマリアには暫定政府らしきものが登場するも、独自に復興した北部ソマリランドを除き、依然きわめて不安定な状況にある。

なお、アメリカ軍が苦戦した理由のひとつとして、その指揮命令系統が予想外に脆弱だったことが挙げられる。
高度な装備を持ってはいても、哨戒機や観測ヘリコプターが収集した情報をJOC(統合作戦指揮所)で判断し、それをC2経由で現場に指示するという縦割りの命令系統が、タイムラグを産み、複雑な市街戦に対して迅速に対応できなかったのである*1。
この戦訓がアメリカ軍に対して、末端の車両までデータリンクを施すC4Iの導入を強力に推し進めた。

また、本戦闘に参加した民兵は、アフガン紛争?で旧ソ連軍のヘリコプターを相手に戦った経験のあるアフガン民兵に指導を仰ぎ、

本来対戦車用のRPG-7を空に向けて発射しても噴射炎を浴びぬように、事前に地面に穴を掘っておき発射器の後端をその穴に差し入れてから発射すること。
RPG-7のヒットトゥーキル式の弾頭信管を時限式に換装してヘリコプターを破壊できる可能性を高くする。

などの工夫をして米軍との戦闘に備えてきたため、米軍の最新鋭ヘリコプターがきわめて簡易な対戦車ロケットによって撃墜される結果となった。

民兵の抵抗が激しかったことについては、治安回復という作戦目的がソマリア人に理解されていなかった、という側面もある。
UNOSOMの段階では「食べ物をくれるアメリカ人」という認識であったものが、UNOSOM2初期の無理な作戦により徐々に反米意識を高め、しまいには「アイディド将軍が捕らえられたり、殺されたりしたら、アメリカ軍がソマリア人を大量虐殺する」というデマゴギーまで浸透していたという。
さらには作戦の際には流れ弾も多かったうえに、民兵と住民とが入り乱れていたため、本来戦闘に関係なくとも銃弾に倒れた住民も多数いたと見られている。
このためアイディド派だけでなく、その地域住民まで含めて無謀なまでの徹底抗戦をおこない、死傷者をいたずらに増やす結果となった。
(もっともそのせいもあり、アイディド派の捕虜となったパイロットのマイケル・デュラント准尉を取り戻すためアメリカ軍側が「無条件で捕虜を返還しなければ報復する」と脅したところ、アイディド派はあっさりと返還に応じた)
さらに言えば、特定部族の武力制圧という手段自体が、超大国による内政干渉として拒絶された面も大きい。
食糧援助は望んでも、外力による平和の強制は望んでいない人々が多かったのである。
戦争、特に不正規戦における人心掌握の重要性を示す故事であるが、これが現在のアメリカ軍、特にイラク戦争?の戦後処理に活かされているかについては疑問が残る。

余談だが、当時アイディド将軍の息子フセイン・アイディドがアメリカ海兵隊に所属しており、ソマリアへも派兵されていた。
将軍の死後はフセインが跡を継いだが、派閥の分裂が激しく、モガディシュを掌握するには至っていない。
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